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なりたい職業―時代の移り変わりと心変わり

人気職業、昔と今

 私の子どもの頃、小学生が将来なりたい職業の一番は、男の子が「プロ野球の選手」、女の子は「看護婦さん」と相場が決まっていた。その後、女の子の夢は「スチュワーデス」に代わり、変遷を経て今は「ケーキ屋・パン屋さん」になっているようだが、その名称も含めて時代を感じざるを得ない。

 ご存知のようにスチュワーデスについては、「女の職業」と決めつけていることが問題とされ、男性乗務員が生まれると同時に「スチュワード」や「パーサー」の名が浸透した。さらに男女の区別をする名称そのものが批判され、性別を問わない「フライトアテンダント」という単語が生まれた。

なれるだけでも「奇跡」と言える職業とは…

 話が脱線したが、本題は「将来なりたかった職業」と「現実」との落差である。例えばプロ野球の選手になれるのは、ドラフトで指名される72名以外ではそう多くはない。その後に人気の出たサッカー選手においても似たようなものである。どちらも最高レベルの狭き門だが、囲碁や将棋の棋士になるのは、プロスポーツ選手になるよりもさらに難しい。

 かの史上最年少中学生棋士・藤井聡太の出現で、日本列島が沸騰したのは記憶に新しいが、将棋の世界では、なんと毎年たったの4名しかプロ棋士になれないのだ。東大・京大の博士号を取るより難しく、棋士になれただけでも「天才」と言ってよい。

 大人顔負けの将棋が強い小学生で、周囲から「神童」と言われる子供は、おそらく全国に百人前後はいると思われる。しかし、そのほとんどが別の道を歩まざるを得ないのが現実である。ちなみに将棋界では、「夢で人生を棒に振る」ことのないように、奨励会(プロ養成機関)への入会やプロ試験(三段リーグ在籍)に年齢制限を設けている。

 また、お隣の囲碁界でも、将棋界ほど厳しくはないが、プロになるには同様の年齢制限がある。努力だけでなく、図抜けた才能を要求される分野では、「初志貫徹」の信念が無残な結果を生む可能性が高いのだ。

なりたい職業がコロコロ変わった、私のココロの遍歴

 笑われるかもしれないが、私のなりたかった職業を披露し、初志貫徹とは真逆の人生を歩んできたことを白状しよう。その最初は「納豆売り」である。

 私の幼少期には、近所によく納豆売りのオジさんが回ってきた。
「え~、なっとなっとー、なっとーー」と歌うような声が遠くから聞こえ、次第に大きな声となってやがて遠ざかっていくのだ。のどかな昭和の風景の一断面に過ぎないが、なぜか幼い私はこの納豆売りをまねて、ご機嫌だったようである。そして、大人たちに「大きくなったら何になりたい?」と聞かれると、迷いなく「納豆売り!」と答えたそうである。

 次になりたかったのは、トラックの運転手。これはよく覚えている。近所に材木工場があり、学校に上がる前は材木を積んだ馬車が通るのをよく眺めていた。その中に混じって時折、工場内にさっそうと入ってくるトラックが格好良かった。

 初めて知的な職業に興味を持ったのは、小学3年生の頃だったと思う。家にテレビがないその頃は、よくラジオでドラマを聞いていた。「笛吹童子」などの新諸国物語に夢中になった影響で、「小説家になりたい」と思ったのが三番目である。さっそく小説を書いてみたが、ノート1ページで挫折した。

 次になりたいと思ったのは画家である。小学校5、6年の頃、絵の上手さは「クラスで一番」を自認しており、写生大会やポスターなどでよく金賞を獲っていた。ようやく「突飛ではない夢」に辿り着いたのだが、中学に進んでなぜか美術部に入らなかった。理由は思い出せない。

 中学1年で作文に書いた「将来なりたいもの」は、造船設計技師だったと記憶している。原稿用紙を渡されてから無理やりひねり出したもので、日本の造船産業は当時、花形だったのだ。しかし、中学3年になると私のなりたいものは建築家に変わっていた。当時、数学と美術と製図(技術家庭)が得意だった私にとっては、より現実的な目標になり得たはずだが…。

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