文章の種類(読者が求める5つの目的とは…)
文章の種類は、目的や表現の形によってさまざまです。本講座は、エッセイと小論文を中心に文章の書き方を教えているわけですが、そのほかにも小説、ノンフィクション、取材記事、評論、論説、コラム、実用書、企画書、取扱説明書、広告コピー、あいさつ文、ブログ、手紙などの文章があります。これらは、文章作法の基本は同じでも、構成や文体、レトリックなどにかなり考え方の違いがあります。その違いはどこから生まれるのでしょうか。
ジャンルによって文章の書き方に違いが出てくるのは、書かれるテーマや書き手の個性によるものではありません。実は、書き手ではなく、読み手の側に理由があるのです。どんな文章でも、書く前に「だれに向けて書くか」ということを、しっかりと意識していなければなりません。逆にいえば、「読み手が何を求めているか」ということになりますが、そうした文章の目的をしっかりと踏まえていないと、文章は書けないということです。
あらゆる文章には目的があり、その目的によって文章はジャンル分けされています。文章の目的にはいろいろな分類法があるでしょうが、大まかに、「記録する」「解説する」「楽しませる」「自己表出をする」「宣伝する」の五つに分類することができます。もちろん、どんな文章でも目的は一つだけではなく、複数の目的(要素)を備えているのがふつうです。
記録する(日誌、備忘録、公文書、取材記事など)
記録することをいちばんの目的とした文章は、日誌、備忘録、公文書などのたぐいです。正確性を最も重視し、あとで説明するような「楽しませる」「自己表出をする」といった要素はほとんどありません。味も素っ気もない文章になりがちです。
また、記録することにウエイトが置かれた文章としては、新聞や雑誌などの取材記事があります。「記録する」というよりは、「読者の知りたいという欲求に応える」といったほうがよいかもしれませんが、広い意味で「記録」の範疇に入るでしょう。
取材記事は記録性を重視しながらも、解説する要素もあり、また、楽しませることをまったく無視しては成り立ちません。特に週刊誌では、事実の伝達よりも、楽しませることのほうが優先される傾向があります。
解説する(参考書、教養書、学術書、実用書、評論など)
新しい知識を広めたり、自然界や社会、事物などの仕組みをわかりやすく伝えたりするための文章です。教科書、参考書、事典、教養書、学術書、実用書、評論、論説、専門誌、新聞の社説や特集記事、取扱説明書…など、多くの文章が「解説する」、あるいは「説明する」という目的を持っています。小論文もその中に入るでしょう。
解説することを主目的とした文章では、何よりもわかりやすさが大切ですが、出版物として考えたときは、「楽しませる」という要素も重要になります。おもしろくなければ本を買ってくれず、たとえ買ってくれたとしても読まれないからです。
解説することを主な目的としない文章でも、不特定多数の読者を想定したものでは、解説(説明)するという要素は欠かせません。読み手の疑問に対して、いかにわかりやすく説明を加えるかということが、文章展開においては重要だからです。
楽しませる(小説、ノンフィクション、エッセイなど)
ところで、「読書は“趣味”とはいわないでしょう」と、目を三角にする方も少なからずいらっしゃいます。しかし、それは「車を“趣味”というのはおかしい」と主張するのと同じです。本来の目的がどうあれ、楽しむことが最大の目的であれば、それは「趣味」の領域なのです。
話は脱線しましたが、読者が本をどのように楽しむかは千差万別です。おもしろくしようとして、くだけた口調の文体にしたり、ユーモア過剰の文章を書いたりしたから、読み手が楽しめるというものではありません。楽しませるということの一つに、読み手の好奇心を満足させるということも含まれるからです。
例は適切ではないかもしれませんが、取材記事という建前がある週刊誌のゴシップ記事は、記録することよりも、読者の「のぞき趣味」を満足させることが目的となっています。その手の文章は、お世辞にもユーモアがあるとはいいがたく、あるのは露骨な皮肉ばかり。それでも、ゴシップ記事は多くの人を楽しませているのです。
それとは逆にほとんどの方が敬遠する難解な文芸評論や哲学書を、「楽しみ」として読んでいる人もいます。知的好奇心とのぞき趣味では、月とすっぽんほどの差があるのかもしれませんが、大脳の生理学的レベルでいえば、さほど機能が違うようには思えません。要は、「どういう読者層に対して、どのような楽しみをもたらすか」です。
自己表出をする
文章を書きたいと思う人のほとんどが、自己表出をしたいという願望を持っているでしょう。水彩画を描いたり、楽器を演奏したり、陶芸を楽しんだりするのも、心の奥底にある自己表出の欲求を満たすものです。文章はそれらに比べるとお金もかからず、だれでも気軽にできます。
しかし、そこに落とし穴があります。すでに述べてきた文章の3つの目的(記録する、解説する、楽しませる)がわかっていればよいのですが、自己表出の意識だけが過剰になると、独りよがりの見向きもされない文章になるおそれがあります。気持ちよく書いた文章も読んでくれないことには、そこに表現された「個性」は意味のないものになってしまいます。
そもそも、個性は意識して出すものではありません。むしろ、基本をしっかりと積み重ね、伝えたいことをどうしたらうまく表現できるかに心を砕く中で、自然に個性が表れるものです。自己表出という崇高(?)な動機は、文章を書く上ではいったん棚上げしましょう。個性は文章そのものにあるのではなく、その人のユニークな体験や生き方、知識、ものの考え方にあるのですから。
宣伝する
文章は個人だけのものではありません。所属する団体や企業などを代表して、あるいはその委託を受けて書く文章もあります。物品や各種サービスを売り込むための文章はもちろん、その団体のイメージアップを図るための文章も、すべて宣伝文(広告コピー)ということになります。また、個人であっても、その文章によって物質的、精神的利益を得ようとするものは宣伝文です。
営利目的ではなくても、宗教団体や政治団体、各種社会運動を行う団体が自分たちの思想や活動を理解してもらうために書かれた文章は、やはり宣伝文と考えてよいでしょう。拡大解釈すれば、個人から個人に宛てたラブレターの類も、究極の宣伝文とみなせます。
営利目的の宣伝文は、消費者のほうから情報を求めた場合を除けば、広告とわかった瞬間にそっぽを向かれる宿命があります。そのため、宣伝臭さを極力排除するとか、役立つ情報を提供して興味を持ってもらうなどの工夫がなされます。芸能人やカリスマ的な専門家、あるいはユーザーなどを登場させて語らせるのも、興味を持ってもらうための常套手段です(実際にそのコメントを考え、書くのはコピーライターの仕事ですが…)。登場人物は、当然ながら知名度や影響力に応じた報酬をもらっています。
広告コピーでは、本文の前に必ずキャッチフレーズがあり、さらにサブキャッチや本文見出しも工夫されます。いかに目につくか、強い印象を与えるかが勝負ですから、そのために視覚効果も含めたあらゆるテクニックが駆使されます。
しかし、実際に書いているプロのコピーライターは玉石混交で、必ずしも文章がうまいとは限りません。ちょっと長い文章になると「素人並み」というライターも少なからずいます。そもそもコピーライターは通常、長い文章を書く必要がありませんし、うまい文章が必ずしも広告効果が高いというわけでもありません。読者の潜在的な感情に訴える、たった一本のキャッチフレーズで勝負が決まることが多いのです。
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